2013年12月28日
光り輝く島(スリランカ)2012
光り輝く島へ
母親が亡くなって喪に服していた1年。
3年程の間ではありましたが、単身実家に帰り母の介護をした日々も懐かしく感じるようになっていました。
考えてみたら、両親が亡くなり、子供もいない私は、もはや気楽な存在。
若い頃夢見たサーフボードを持った放浪旅もやろうと思えばできることに気づきました。
2007年のハワイ以来、どこへも行っていなかったのでボードを抱えて一人旅に出ようと思い立ちました。
手始めに申し込んだツアーは南台湾。
ところが、旧正月とバッティングして帰りの航空券が手に入らず、急遽目的地の変更を余儀なくされました。
そこで、スリランカが候補地に浮上しました。
思えば、これは運命だったのでしょう。
1984年26歳の時、初めてアジアに一人でサーフトリップに行った先がフィリピン。
何の情報もなく、アメリカのSURFER誌の記事が頼りでした。
フィリピンを2週間駆け廻り遂にサーフを見つけられずに成田に戻ったという苦い経験でした。
その帰りの飛行機(パキスタン航空)にサーファーが乗っていました。
話を聞くと、スリランカで8feetの波に遭遇したとのこと。
これがスリランカでサーフィンができると知った最初の出来事でした。
2012年1月15日 DAY 1 成田へ
朝早いので駿府町からボードを担いで駅に歩いて行くつもりでしたが、
妻がクルマで迎えに来てくれたので助かりました。ありがとう。
静岡始発電車で品川へ。
ここでしばらく待機して乗り換えです。
東京駅で乗り換えると延々と歩かなくてはなりませんが、品川乗換えだと乗換えが簡単です。
成田エクスプレスで空港へ
これまで見れなかった景色も現れました。
初めて見ましたが、さすがにデカイ。
成田に着いて、チェックインしました。
なんか、飛行機ガラガラみたいです。ラッキー。
成田にもこんなトラムがあるんですね。知らなかったです。
いちばん外れの87番ゲートへ。
駐機中のこのスリランカ航空の飛行機で
いよいよ出発します。
時刻表では13:30発の予定なのですが、偏西風の向かい風で遅れるのが嫌だから
12:40にはゲート閉めて出発してしまうそうです。
やっぱりお客少ないみたいです。
かつてセイロンと呼ばれたスリランカ。
独立後に国名をセイロンから一般人が使う呼び名のスリランカに改めたとのことです。スリランカの意味は「光輝く島」なのだそうです。
搭乗口に並ぶような人もいなくて、とてもユル~い感じに搭乗が始まりました。
搭乗したスリランカ航空445便はエアバスA340、搭乗率は3割強くらいのゆったりめ。
霞ヶ浦を越えて飛び立ちました。
これが↓エコノミークラスの椅子なのですが、
こちらのブランドに反応する友人が多いので(笑)写真をアップしておきます。
ただし、いくらRECAROのシートでも9時間以上の座ったままのフライトは辛いところです。
お楽しみはこれしかないので、ブロイラー状態です。
ちなみに遅めのランチはビーフにしました。ピンク色のお蕎麦が泣けます。
長い道中のために普段は見ないサーフィンの雑誌を2冊買ってきましたが、広告のコピーを含めて隅から隅まで全部読んじゃいました。もっと本を買ってくれば良かった。
太陽に向かってのフライトだったので長い長い昼でしたが、ベトナム上空でようやく陽が沈み始めました。
遅い夕食、今度はチキンにしました。何で、どら焼きなのか・・・。
1時間後、遂にスリランカの主要都市コロンボに着陸しました。
この国の入国手続きや書類はコロコロ変わるので有名らしいのですが、
1月1日から書式が変更された上、ビザが必要になったらしくて、空港でビザの取得
やらなにやらで1時間以上かかってしまいました。
空港を出ると宿泊予定のマンボウゲストハウスのガイドが迎えに来てくれていて、ハイエースに乗ってヒッカドゥアに向かいました。
これがまた、インドネシア・ジャワ島の交通事情を思い出させるアジアらしい運転で・・・。
なんとか事故もなく(凄いことだ)無事にマンボウゲストハウスに到着しました。
現地時間の午後11時過ぎ。日本時間だともう明け方でした。
ゲストハウスは日本の民宿のようなランク付けでしょうか。
マンボウは清潔でサービスも行き届いていると評判です。
ただ、設備など日本と比較してはいけないのでしょうが、お湯がちょろちょろだったり、石鹸などのアメニティは全く用意されていません。それでもスリランカでは良い方なのでしょう。
交通事情と言い、ウエスト・ジャワのデサ・リゾートの時と同じような感じです。
とりあえず、夜も遅いのでシャワーを浴び、明日に備えて寝ることにしました。
1月16日 DAY 2 ヒッカドゥア
エアコンが無く換気も悪い部屋でしたが、意外と夜は涼しく天井のファンも必要ありませんでした。
夜が明けたので外の様子を見てみました。
マンボウゲストハウスの前はこんなに海が迫っています。
日本の海の家よりも波打ち際に立っています。
ゲストハウスの左側にヒッカドゥワのメインポイントが見えます。
今日はゆっくり疲れを取りコンディションを整えるためのウォーミングアップくらいに押さえておこうと思います。
しかし、頭オーバーでダブルくらいありました。
またもやトリップ先で波に当たりすぎ。
見知らぬ土地の初めての波でこれはちょっと・・・・・。
またまたウエスト・ジャワの時を思い出させる展開です。
まあ、とりあえず冷静にということで
朝ごはんです。
このロケーションで飲む朝の熱い紅茶は、さすがに美味い。最高です。
旅費に含まれている朝ごはんです。残したら失礼なのでお腹いっぱい。デブになりそう。
海の中もだんだん人が増えてきましたが、
波は相変わらずでかい。
食事中、マンボウのガイドのリーダーとして有名なババちゃんが挨拶に来てくれました。
フレンドリーな人です。
明日はもっと波が大きくなる予想だそうです。
どーする俺。
食後、部屋に戻り写真をブログサイズに加工したり、文を書いたりしてお腹が落ち着くのを待ちました。
ところが、あるはずのWiFiが飛んでいません。
これではブログアップもメールチェックもできません。
さて、どうしたものかというところですが、
このエリアは朝は風がないのですが、だんだん陽が高くなるにつれオンショアが吹いて波のコンディションが悪化すると聞いていたのでブログをやめて海に入ってみることにしました。
とりあえずはAviso JJ Rocket Fish 6'2"をセットアップして階下へ降りてみました。
浜に降りようとしたらテラスで食事中だったガイドの子が近寄ってきてリーフの位置やチャンネルの潮流の具合などを教えてくれました。
至れり尽くせりです。やはり短期間の海外サーフトリップで面倒見の良いガイドの存在は大きいです。
マンボーゲストハウスの軒先の砂の中から出てきました。
今年最初の孵化だそうで、大急ぎで海に向かって走って行きました。
うまく沖にゲッティングアウトできたでしょうか。
こんな大自然の営みが目の前で起きる驚きの島です。
さて、教えられたチャンネルからちょっとビビリながら私もゲッティングアウトして沖に出ました。最初は末席で他の人たちを観察。
ポイントには最大で10名程度、しかもライトとレフトは完全に分かれていて5名ほどで波をシェアすればよい状況。サーファーはローカルと白人だけ、それも英語圏じゃない人たち。日本人はいませんでした。
掘れるライト側の一番アウトでたまに入ってくるワイドなセットを待つ、いつものエディ・シフトで待ちました。
最初のうちコンスタントに波が入ってきたので他の人が間に合わないような大き目セットに照準を合わせました。
入ってくるセットはどれも完璧なAフレームの波。
ひときわ大きいのを狙いましたが、意外なほどテイクオフはイージー。
斜面がもの凄く広い波で、こういう波は仙台新港の大波以来でした。
カットバックで繋ぐのですが、あまりに面が広いのでどのくらいの半径でターンすれば良いのか悩むような波。1本ごとに回転半径を変えてちょうど良いカットバックのタイミングを計りました。
最高にご機嫌な波でした。
他の人もガツガツ波を取る人はおらず、ニコニコ笑顔で波乗りができました。
でも、凄いスピードと脚にかかる重力で、油断してたらボトムでコケました。
落ちた時の衝撃がきつく、痛かったです。
脚への負担が大きく、ライディング中に2度も脚がつる事態も起きました。
まだまだコンディションも完全ではありません。
でもとりあえず、初日最初の波乗りとしては出来過ぎでしょう。
とりあえず波に乗れたのでお腹いっぱいと言う感じで満ち足りてしまいました。
少し、周辺の様子も見ておこうと海岸を散歩。
メインポイントの先には広いビーチが広がっていて、ヨーロッパからの長期バカンスの人たちがたくさんいました。
若い人もお年よりも。
このエリアはホテルではなくゲストハウスが集まっている地域です。
ヨーロッパの人たちはお金をかけずに長期滞在して、ほんとうにのんびり楽しんでいるようでした。
こんな漁民のカヌーが何艘も置いてありました。
アウトリガー式のカヌーは南太平洋からインド洋まで海上の道を作り文化を運んだのですね。ハワイやポリネシアの技術や文化がインド洋のモルジブあたりまで繋がっているのです。
遅めのお昼をマンボーゲストハウスのテラスレストランで頂きました。
ここだけWiFiの電波が届いていたのでメールチェックやブログアップができました。海外では食べ物を注文しても出てくるまで時間がかかるので、メールチェックにはちょうど良いです。
お昼はパイナップル・ミルクセーキとチキンのフライドライス。
ジュース類は日本のどんなお店で飲むよりも新鮮で濃厚で美味しかったです。
午後はのんびりして過ごし、夕方になりました。
メインポイントのグーフィー側はタルめで初心者向きと言われていますが、
波が大きいとかなりハードになります。
いやはや、デカイ波に当たってしまいました。
明日は当初から予定してあるとおり、ガイドの車で周辺の各ポイントをチェックする予定です。
スリランカのサーフィン初日は、美しい夕陽で暮れていきました。
さて、スリランカといえばカレーです。
スリランカでは1日3食カレーが常識。
レストランのメインメニューはカレーと聞いていたので
この1週間ほどは日本でもカレー断ちしてきました。
初日の夕食はやはりカレーにしなくてはと思いました。
こちらのカレーはかなりスパイシーと聞いていたので少しマイルドな感じでと注文しました。
日本で食べるカレーライスとは別物。
カレーはやっぱりチキンだろうと(日本最初の新宿中村屋のカレーはチキンカレー)いうことでチキンを選びました。
右奥がカレーですが、日本の感覚だとご飯の比率が大きすぎですね。
こちらでは手でご飯をつまみ、カレーを付けて食べるので、いわばタレのような感覚なのでしょう。
カレーの手前、ご飯の横にあるのがスパイスで、舐めると異常に辛かったです。
これを好みの量だけカレーに混ぜて辛さを調整できるのです。
こんなにたくさん出てきましたが、小さじ半分で充分に辛かったです。
甘くて濃厚なパパヤジュースでようやく中和できました。
1月17日 DAY 3 プチ・トリップ
さて、一夜明けて現地2日目の朝。
今日はガイドの車で他のポイント巡りです。
ガイドはハッサン。ババちゃんも朝6時に来て起こしてあげるからと言っていたのですが、予想通り、6時半になっても来たのは
この犬だけ。
別に何かをねだるわけでもないのですが、誰もいないレストランで私のすぐ側に来て丸くなって寝ていました。犬も人懐っこくてホスピタリティに溢れている島なのですね。
6時45分になって、ようやくガイドのハッサンが来ました。
空港に迎えに来た、あの超高速運転手とのコンビで南のサーフポイント巡りに出発しました。
朝のラッシュアワーなので、通勤・通学の人たちで町は賑やかでした。
この国の道路は信号機が極めて少ないうえに、交通ルールは典型的なアジアスタイル。ラッシュアワーの交通事情はどうなってしまうのだろうと興味津々でした。
クルマも多いですが、バスや鉄道を待つ人の姿も多く、学校の近くの横断歩道や主要な交差点には警察官が大動員されていて交通整理していました。
こんな婦警さんも道路の真中で交通整理していました。
みんな運転が荒いので命がいくつあっても足りないような気もしますが、恐くないのでしょうか。でも事故の現場を一回も見てないですし、混沌のように見えても現地の人にとっては普通に安全確保できてるんでしょうね。
ゴールの市街地を抜け、ミディガマ、ウェリガマといったポイントをチェックしていきましたが何処も波が大きすぎてクローズアウト寸前。
最後に街道から未舗装の横道に入ってクルマは止まりました。
今回私が一番楽しみにしていたポイントのメリッサです。
椰子の木に囲まれた美しい小さな湾にコンパクトなレギュラーブレイクがあるのです。
が、しかし、今回は湾の沖合いで大ダンパーがブレイク。
湾内でも再びうねりに戻った波がブレイクしていて数人のサーファーが入っていましたが、ロングボーダー憧れの美しいブレイクは見る影も無く諦めました。
初心者向きのマッシーなビーチブレイクのウェリガマに戻りましたが、こちらもダブルオーバーの大ダンパー。波乗りできる状態ではありませんでした。
一番最初のポイントのミディガマに戻ると遥か沖にサーファーの姿が見えました。
このレギュラーが魅力的に見えましたが、ガイドのハッサンが左側のグーフィーの方を推すので
こちらに入ることにしました。
小さい波で頭オーバーくらい。
セットはダブルくらいでしたが、昨年秋の四国トリップ以来、バックサイドのサーフィンが好調なので大丈夫でしょう。
高知のNポイントのグーフィーにも似ていますが、サイズで2倍、水量では4倍はあるでしょう。
ポイントまでかなりの距離があるのでライトニングボルトのシングルフィンで入ることにしました。
この砂浜からハッサンが教えてくれたコースのカレントに乗ってパドルアウトしました。
ポイントには上手なローカルの子供と白人が3人だけ。
小さな波を狙いましたが、時々広い湾全体がクローズするようなダブル以上のセットが入ってしまい、ダックダイブ(ドルフィン)しても通用しないような状況。
それでも頭半くらいのスローな長~いグーフィーの波を何本も乗れました。
台風時の坂井港の奥からブレイクするグーフィーのような波で、長さは2倍はありました。
ムネ~アタマくらいだったら凄いファンウェイブでしょう。
入っているサーファーの中で上手い人はこの女性くらいでした。
これで波の終わりごろのサイズです。
1時間半ほどでお腹いっぱいになり上がりました。
その後、2ラウンド目のために休憩しましたが、体力の消耗と体の痛み(大波に叩かれて首の筋肉が痛くて)沖のトリプルサイズの大ダンパーを見て戦意喪失し、帰ることにしました。
さて、クイズです。この海の中に立っている細い棒は何のための物でしょう。
この棒は釣りのためです。もっともこちらは漁業としての伝統の釣りですが、
ストルト・フィッシングというのだそうです。
このあたりの風物詩というか、観光の一環でもあるようです。
ミディガマのサーフポイントのまん前にもゲストハウスがあり、ヨーロッパのサーファーたちが滞在していました。
このあたりはヨーロッパからのお客が多く、それを対象としたゲストハウス(民宿)がたくさんあります。
彼らは地元民の足であるトゥクトゥク(ミニ三輪車)をチャーターして幌の上にボードを満載してサーフポイントに出掛けるスタイルがほとんどで、お金を掛けずに地元に密着してバカンスを楽しんでいます。
今回の旅は初めてのスリランカで短期なこともありサーファー向けの安いパックツアーですが、彼らと比べたら大名旅行。日本人の平均的な旅スタイルと彼らの旅の楽しみ方では根本的に違いが感じられます。
日本人ももっとお金を掛けずに地元に密着して長い休みを過ごせるような社会構造を作っていかないと、これからの低成長・デフレ・高齢化の日本で、生きていくことの満足度を向上させることはできないのではないかと思います。
ここに来ている人たちは言葉の感じからEUの中でも債務国であるスペイン・ポルトガル・イタリア・ギリシャなどではないでしょうか。
安宿・安レストランでも楽しそうで賑やかな白人の家族連れをみていると日本人もこういう部分を学ばないと、社会情勢に心の部分が蝕まれてしまうような気がします。
波はトリプルのダンパーなので午後まで波乗りをする気にはならず、途中にあるゴールの街へ向かうことにしました。
途中、ガイドのハッサンが道端の椰子の実売りの屋台で止まってくれました。
これはゴールデン・ココナッツで、木に成っているときから実がむき出しの品種です。
屋台のおじさんが蛮刀のような鉈で手際よくスパッと実を切ると
こんな感じで中のジュースを飲むことができます。
そして飲み終わると
鉈で二つに割って中の白い果肉を食べることが出来ます。
この時、左の実の中にある殻の切れ端を鉈でサッと作ってくれるのですが、
これが殻の内側のアールにぴったりのスプーンになるのです。
甘くて美味しかったです。
小さな集落の平均的なイメージでしょうか。
スリランカではやたらに人にカメラを向けるのはタブーとされていると何かで読んだことがあります。写真撮影は普段よりも慎重にするようにしました。
こんな風景もありました(笑)
クルマは日本のトヨタが圧倒的で、ハイエースやカローラの比率が高いです。
数は少ないですがプリウスもホンダのインサイトも見かけました。
後は、インドのTataも多いですね。話題の格安カーのnanoもタクシーで走っていました。
これがスリランカ南部の典型的な漁船です。
港がなくても砂浜から漁に出られるのでコンクリートで漁港を作る必要もありません。伝統の技術は環境にも優しいんですね。
これがゴールの旧市街地を囲う城壁です。ゴールはスリランカ南部最大の都市。
1589年と言いますから日本の戦国時代の終わりごろポルトガルによる最初の砦が築かれ、後にオランダが植民地支配の拠点とし、その後イギリスに変わりました。
東洋への海上交通の要衝ですから西洋列強が重要拠点として支配したのは当然でしょう。巨大な城塞都市となりました。実はこのゴールの旧市街は世界遺産に登録されています。歴史的に重要な遺産なのです。
ここスリランカは東西海上交通の重要地点にあり地政学的にも世界の重要な場所。
紀元前3世紀には王朝文化が栄えた高い文明を持った民族なのです。日本なんかよりずっと歴史と文化がある民族。しかし、悲しいかな地政学上の重要地点だっただけに異民族、とりわけ西欧列強の侵略を受けてきた歴史があります。
シンボルとなっている時計台です。
スリランカは400年近く異民族によって支配・抑圧されてきたわけです。
その時代の統治者がスリランカ国内の多数派シンハラ人と少数派タミル人との軋轢を利用したに違いありません。
つい2年前の2009年まで長い内戦が続きましたが、今はテロもなく本当の平和が訪れたようです。スリランカの平和な未来は始まったばかりと言えます。
ゴールの城壁から新市街地を望むと目の前にクリケット場が見え、クリケットに興じる人たちの姿が見えました。ここは大英帝国の支配下でしたからね。その奥の真新しい建物はバスターミナルです。
そこで思い出すのが2004年に発生したインド洋のスマトラ沖大震災による大津波の映像です。
遠く離れたこのゴールの新市街も巨大津波に飲み込まれました。
映像の手前がバスターミナルで、背景にゴールの城壁と時計台が見えますね。
日本の大震災の7年前のことですから、この教訓を日本でも生かせていたらなと思います。
ちなみにスリランカではこの大津波で3万人以上の人命が失われました。
実に日本の大震災の2倍の被害者数です。
しかし、ざっと見ただけではそんな大災害が起きた街だとは到底思えないような賑やかさでした。
植民地としての抑圧、長く続いた民族間の内戦、そして大津波。
でもスリランカの人々は貧しくとも逞しく明るく生きているのに驚かされました。
尊敬すべきはテレビに出て文句を言う評論家達ではなく、こうした一般庶民の生き様でしょう。
南側に大きな湾が望めます。この湾と新市街の低い地形が被害を大きくしたのですが、
大航海時代には多くの大型帆船がこの湾に浮かんでいたことでしょう。
こんな風にレストランでブログ書いてます。
1月18日 DAY 4 休息日
波に叩かれ、体がボロボロ。あちこちが痛みます。胃もちょっと痛いので(本当は食べ過ぎ)
夕食を一回抜くことにしました。
でも、空腹に耐えられないと困るので近くのスーパーマーケットで買出し。
スーパーと言っても、日本で言う駄菓子屋程度の規模で商品も田舎の駅のkioskよりも少ない小さな商店です。
珍しく愛想の悪いオヤジが店主で、インドの映画に出てきそうな感じ。
スリランカ人はホスピタリティ溢れると言っても、こういうオヤジだって当然いるでしょう。
お店の写真なども撮りたかったのですが、そんな雰囲気なので撮れませんでした。
さて、買ってきた物の中に好物の
チョコレート・チップ・クッキーがあったのですが、
そのブランド名に気付き思わず笑ってしまいました。
Munchee BISCUITS(マンチー・ビスケット)
そういう時、私は甘いビスケットに走っちゃうんです。。
今回の旅では波乗りに集中するためにお酒も煙もオンナっ気もナシです。
夕方、iPhoneでメールを打とうと思い2階のテラスに出たんです。夕食を抜くのでレストランは避けました。2階のテラスは端っこのごく狭い範囲でしかWiFiの電波が届いていないのです。
そこにフランス人の女性が座っていたので少し離れたところに立ってメールを打っていました。
そうしたら「夕陽がきれいよ、あなたもここに来て座って眺めなさいよ」と英語で話しかけられてしまいました。
でも、さっきまで旦那が座ってましたから「いや、いいです、ここでも見えますから」と言って固辞しました。
旦那が戻ってきて変に誤解されるのもイヤですし。
でもねえ、ビキニのトップを緩めてるからって、谷間を手で押さえながら話しかけるのやめて欲しいなあ。覗こうなんて思ってませんから(汗)
スリランカは仏教の戒律が厳しいそうです。
ヨーロッパのバカンス客が多いのに、国の法律でトップレスも禁じられたそうです。この国で危ないことは避けましょう。
1月19日 DAY 5 メイン・リーフ
昨日は体のあちこちが痛くて体を起こすのも結構辛い1日でした。
それでも休養が効を奏して、痛みも取れ完全復活できました。
真っ暗なうちから起きてヒッカドゥワ・メインリーフの一番乗りを狙いました。
昨日までのトリプルセットは消え、見た目は半分以下にサイズが落ちたように感じましたが、1ラウンド目は大事を取ってライトニングボルトでパドルアウトしてみました。残念ながら1番乗りではなく先客が一人いましたが早起きは値千金です。
サイズが下がったとはいえ頭半、ピークはダブル近くありました。
重いライトニングボルトのレトロシングルフィンで正解でした。
このサイズの波だとスピードが出るのでAviso JJでは浮きあがりを押さえ込むのがたいへんなのです。細くて浮力の無いパフォーマンスボードか重いレトロなボードが大きな波には向いています。
日本の普段の波では軽いボードの方が乗りやすいのですが、ここの波はボードの重さが必要と感じました。
風は無く面はグラッシー、パーフェクトなシェイプのヒッカドゥワならではの波でした。
上の写真を拡大すると
まだまだサイズがありますね。
レギュラーの大き目を狙ってテイクオフして、昨日見た上手い人がやっていた掘れたセクションでカットバックを試みてみました。
マシンのように規則正しい波なので同じ場所で同じ事をまねてみることができるのです。リップぎりぎりで大きくカットバックしてポケットに入りましたが、もうちょっとのところで抜けられず潰されました。
でも、ちょうどパドルアウトしてきた白人サーファーが、
「ワォー、凄かったよ」と言ってくれました。
ポイントの雰囲気も良いです。
しかし、あっという間に続々とサーファーが集まってきて混雑状態に。
こうなると雰囲気もギスギスしてきます。
1時間ほどで1ラウンド目は終了。
体を動かしたので体調も非常によくなりました。
朝食後、2ラウンド目に出ました。
人は一挙に20人以上。
ポイントブレイクに20人は限界を超えた人数です。
2ラウンド目はAvisoで入る予定でしたが、作戦を変更。
波を観察していたら、15分に一本くらいワイドに入ってくる大きな波があり、それには誰も対応できずにいました。
そこでライトニングボルトで一番アウトのレギュラー側の端、エディ・シフトで波待ちする作戦にしました。
滅多に入らないワイドセットを確実に捕らえられる位置取りをする一方、
メインリーフに連続セットが入り、メインの上手い連中が次々に乗って空いたところに後方から回り込んで忍び寄り、
4本目5本目あたりのセットを取るという作戦。
パドルもテイクオフも早いボードならではの作戦です。
波はやや落ち着いてセットで頭半くらい。
テイクオフのエリアも狭まって人が集中して来ました。
でも、私は一人外れで待ちの体制。
そうしたらローカルサーファーが日本語で
「そこ 波 ないよ、ここ来な」と呼んでくれるのです。
おせっかいですが、嬉しいですね。
「日本人、珍しいよ」「5年前いっぱいいたね」
「いま、日本人、お金ないね」
よく知ってますね。私も大笑いして返すしかありませんでした。
そうなんです。この混雑の中でも日本人の姿が無いということは、今ヒッカドゥワにいる日本人サーファーは私だけかもしれません。
実は、正月から先週までマンボーには15人の日本人が宿泊していたそうですが、ほとんどが帰ってしまい、現在ここにいる日本人はババちゃんの奥さんやスタッフの奥さんとその友人だけなのです。
そこでマンボーの主要スタッフもアルガンベイのマンボーハウスの補修に出掛けてしまいました。
2ラウンド目も作戦がほぼ的中して本数は少ないですが大きめセットは乗らせてもらいました。
こちらも1時間ほどで上がりました。
波が下がると同時に、今度は浅瀬のリーフにぶつかる危険もあるので集中力が残っているうちに上がりました。
1月20日 DAY 6
旅も終盤
いつも変わりない風景ですが、今日は波だけが違いました。
波がほとんど無くなってしまったように見えます。
今朝は本当に1番乗りを目指して波が見えるか見えないかの暗がりをAvisoでパドルアウトしました。
さすがに今日は一番でした。でも2本乗ったところで2番から5番までもが到着。
今朝の挨拶は
"Good Morning........No Wave.
計測波高は80cm以下しかないようですが、周期は12秒以上あるので
ヒッカドゥワの波は腐っても鯛です。
日本の波情報の表記なら、ムネ~カタ~アタマ ◎80点というところでしょうか。
悪くても日本の最高水準の波がブレイクしています。
朝一はヤル気満々の比較的乗れるメンバーが揃っているうえ波数は少なめなので、
静かなポジション争いもあります。
私はその反対反対を狙って空白のスペースを見つけて小刻みに動き回り、誰とも競わずに波を取っていくスタイルで結構乗らせてもらいました。
今日も1時間弱で上がりました。
短時間で止めるのは、自身のコンディションのためもあるのです。
初日に2回、昨日も1回、Avisoに乗っているとき軸足が攣ってしまいました。
今日は肩も痛み出してしまいました。
歳をとるってこういうことなんでしょうね。嫌ですねえ。
パドリング肩とでも言うのでしょうか、パドルのし過ぎで炎症を起こしているのでしょう。
救急法ではこんな時、氷で15分間冷やします。
ほら、野球のピッチャーがベンチへ引っ込むと氷の袋でアイシングをしてますよね。
肩を酷使することによる炎症(内出血)の止血のために20分以内で氷で冷やすと早く炎症を抑えることができるのです。
氷はないので15分間冷たいシャワーで肩を冷やしました。
陽が高くなってくる頃には朝のメンバーは上がってしまい、
波乗りを覚えたばかりのファンボードのバカンス客に替わりました。
でもこの人たち恐いもの知らずというか、頭サイズのピークから突っ込んできて乗り切ってしまうのです。白人の多くはライディングはヘタクソでも筋骨隆々でパドル力があり侮れません。
そんな人たちの合間を縫ってローカルの子供たちが軽やかに波乗りをしています。
波が小さくなって、ますますゆっくりとしたユル~い時間が流れるヒッカドゥワです。
終盤になり波乗りをできるだけやっておこうと
朝一の1時間、朝食後1時間、夕方5時から1時間というスケジュールで動いていました。
朝食のため部屋を出たらお隣の部屋の方にばったり。
昨夜遅くに到着した千葉のご夫婦。初めて日本人のサーファーと出会いました。
朝食後のサーフィンといっても午前11時頃からです。午後はオンショアが吹き始めますが午前中は風もほとんど吹きません。
マンボーゲストハウスの正面にもサーフポイントがあるのですが、よほど砂が付いている時でないとなかなかブレイクしない厚いブレイクです。
マンボーチームが団体で入っているとき以外はいつも1~2名しか入っていないので、入ってみることにしました。
マンボーのスタッフの目の前なのでこちらの実力を知ってもらうには良い場所です。Avisoが高価だということはスリランカのサーファーも知っています。ただの金持ちオヤジだと思われないためにもAvisoを乗りこなすところを見せないとね。
波が小さくトロトロなうえ、滅多に入ってこないコンディションなので波を読む力としっかりパドルしてテイクオフでき、しかもトロ波でも加速できるテクニックがないと乗れません。
まあ、なんとか何本か岸まで繋いでメイクできたので、スタッフの方たちにもそこそこに認めてもらえたでしょう。
午後はひたすら体を休めます。部屋の前は広いテラスになっていてのんびり昼寝ができるようになっています。
マンボーでは部屋の中に閉じこもっているよりもここでのびのびと昼寝したほうが気持ちが良いのです。
ゲストが昼寝していることよりもスタッフが寝ていることの方が多いですが・・・(笑)
そうそう、ここでよく読書をしている若い日本人女性を見かけていましたが、スリランカ人スタッフの奥さんかと思い、ガイドのババちゃんがいつアルガンベイから戻るのか知りたくて声をかけたのです。
そうしたらそうではなくて、彼女は2ヶ月前に会社をやめてスリランカに来て家を借りて長期滞在しているのだと聞いて驚きました。
凄い行動力ですし、家を借りるといってもどうやって探したのでしょう。かなりの情報収集力、交渉力、他人とのコミュニケーション能力と度胸と愛嬌がなくてはよその国の人たちのコミュニティには溶け込めないでしょう。
でもこういう人って日本の会社社会には溶け込めないんですよね。
学歴や資格ではなく個人の能力を持ったこういう人材を会社に繋ぎとめておけない日本の企業の人事制度や企業風土が残念に思います。
こういう女性の友人が何人かいましたが、日本に戻っても派遣かアルバイトくらいしか働き口がないのが現実なのです。もったいないですね。こういう人たちが日本で能力を発揮できないなんて社会的損失だと思います。
なんてことを考えながら、だらりと弛緩して午後を過ごす私です。
午後3時を過ぎると散歩に出ます。
マンボー前の砂浜も大波が消えたと同時に日に日に復活してきました。
マンボー前から少し離れると砂浜は広くなっています。
ヒッカドゥワのエリアの中でも砂浜が狭くなっているのは沖でサーフィンができるリーフがあるメインリーフからマンボー前だけなのです。やはり波の力しだいなのですね。
ヒッカドゥワにはホテルもありますが、多いのはヨーロッパの長期滞在者向けのゲストハウス
ビーチ沿いのゲストハウスは質素で設備も貧弱のようですが、それぞれ雰囲気のある建物が多く、どれも泊まってみたくなる様な佇まいです。
スリランカは知る人ぞ知る歴史的デザインホテルの宝庫なのです。
ゴールの城壁内にはアジア最古のホテルを買い取ったアマングループのホテルもあります。
夕方5時からは1時間弱、メインリーフに入りました。
これまで透けて見える海底のギザギザ珊瑚のせいでミスして転ぶ恐のある技に消極的だったのですが、ようやくリラックスしてメイクできるようになってきました。最後の一本は掘れた斜面を抜け次のセクションでリッピングを掛けたのですがリップのパワーがあり過ぎて波の上に弾き出されちゃったのです。そのままフローター気味に着水できて、2度とできないエアリアルをメイクできました(笑)。まあ、体のバランスが非常に良くなってきたから転ばなかったのでしょう。日本の波では絶対無理です。
でも、明日が最終日なんですよ。せっかく調子が上がってきたというのに残念です。
最後の日没は見事なゴールドから真っ赤に変化する海でした。
1月21日 DAY 7 最終日
とうとう最終日になりました。
今日も暗いうちにヒッカドゥワ・メインリーフにパドルアウトして一番乗りを果たしました。すぐにドイツ人(たぶん)夫婦が来てしまいましたが、挨拶したのをきっかけに和気藹々といい波を譲り合いながらハッピーな時間を過ごしました。3人で「ワオー!見事な日の出だ」なんて叫びながら真っ赤な太陽が椰子の林の中から上がってくるのを見ました。
30分ほどは本当にハッピーな時間を送れたのですが、隣の部屋の日本人夫婦が来た直後に入ってきたイタリア人(そんなふうに見えた)4人組ががっつきサーファーで、急に波取り争いが始まってしまいました。あのドイツ人夫婦も堪らず帰ってしまいました。
これは、こいつらの仲間に加わってしまった方が争わなくて済むなと思ったので話しかけてみることにしました。イタリア人用の話なら車ネタでいけそうなのでとっさに考えたところで話しかけてみました。
Good Morning.where you guys from?
当然、「イタリー」と返事が来ると思っていたのですが、
France
と返ってきてしまいました(大汗)
・・・・・何話せばいいんだ・・・・とりあえず、ビアリッツはいい波が来るみたいですね。とか、ボルドーなんですか・・・ワイン美味いですねとかなんとか取り繕い、そこから先は何言ってるかわからないので、「え、聞こえないんだけど・・・・あ、波来たよ」なんて調子で話したおかげで、とりあえず私の狙う波は横取りされずに済みました。
ヨーロッパのサーファーは筋骨隆々でパドル力も強く、ラテンの血が燃えるのかとてもコンペティティブなのです。プロサーフィンの世界の上位44位までに日本人は一人も入っていないのですが、フランスやスペインをはじめとしたヨーロッパ勢は入っていますから。日本と比べてもサーフィンのレベルは断然フランスの方が上です。
朝一も1時間ほどで上がりました。
今回、もう一回メリッサに行きたいと思っていましたが、もう波乗りは充分にしたという満腹感なのでまたの機会にしようと思います。
後はのんびり過ごそうかと思っていたらアルガンベイから帰ってきたババちゃん兄弟とお二人の日本人の奥さんが赤ちゃんをあやしながらバーカウンターにいました。
肌の色が本当に黒いので最初はびっくりしますが、よく見るとババちゃんもお兄さんも目が大きく鼻は高く掘りは深い、インド・ヨーロッパ語族のアーリア系の顔。かなりのイケメンです。
写真はサーフトリップワールドのHPより
食事をしたらボードを片付けようと思っていたのですが、
今日が最後だからもう一回行ってきた方が良いよとババちゃんが薦めるので、
最後にもう一回波乗りに行くことにしました。
肩の痛みと脚力も限界にきていましたが、最後ですから。
もうあまり気合が入っていなかったのでグーフィー側の小さめをリラックスして乗りました。そうしたら隣の白人サーファーが話しかけてきました。
「どこから来たの?」
「日本です」
「あんたは何処から?」
「イタリアです」
ビンゴです、用意してあったネタを取り出しました。
「おお、イタリアですか、私の友達がランチャ・デルタに乗ってるんだ、それも12年も愛し続けていてね」
「ランチャ・デルタかい、ノーマルなのかそれともラリーかい?」
「そう、ラリー仕様だよ。あちこちパーツを変えてるんだ」
「ラリーなら4WDか?インテグラーレか?」
「そうだ、インテグラーレだ。」
「おお、グレート!」
ちょっと尾ひれを付けてしまって話してますが、どうせイタリア人相手なんでそのくらいデカく話してもいいでしょう(笑)
陽気な奴で歌を歌いだすやら、私の目の前でわざと派手にコケてみたり楽しいイタリア人を絵に書いたみたいな彼のおかげで周りのサーファーも彼の仲間には波取り争いはしてこないのです。
おかげで私も最後のサーフィンを楽しく乗ることができました。
この波が15分に一回くらいレギュラー側に外れてワイドに入ってくる波です。
メインリーフの中央で波待ちしているとグーフィー側しか間に合いません。
これを私だけレギュラー側に外れて待っているのです。
この波のおかげでオイシイ思いもできました。
スリランカの波乗りは楽しかったです。終了です。
2階の部屋の前のテラスでのんびりしていたら、先日のフランス人夫婦が去った後空いていた部屋の前で白人男性が一人でボードを修理していました。リペアキットを持っていないかと尋ねてきましたが、あいにく持ってきてはいません。
彼はニュージーランド人なのですが、中国で仕事をしていて休みを取ってきたのだそうで、ニュージーランドはオークランドに自宅があるそうです。
「オークランドはガーデン・シティって言われているんだよね」
「そうさ、美しい街だよ」
「私はマス釣りも好きだから行ってみたい場所なんだ」
なんて話が弾みました。
私ももう少し長くここに滞在できれば、一緒に波乗りに行ったりして良い友達になれたかもしれません。ハワイのマウナロアに一緒に登ったハワイ大学の恩師マーシャル・パーマーを思い出しました。
一緒にトゥクトゥクに乗ってメリッサで波乗りしたら楽しいだろうな。
ニュージーランドにも行ってみたいし、中国の海南島で落ち合うのも面白いかも。
やはり8日間(現地6日間)では足りませんでした。
ようやく波に慣れてきた頃でしたし、
これからどんどん友達ができてきそうな雰囲気でした。
残念ですが、時間切れです。
でも、また必ずスリランカに行きたいと思います。
ヒッカドゥワの町にいると平和そのものの楽園に感じるスリランカですが、この国も数々の問題点を抱えています。
これはゴールの街の駅ですが都市部では近代的な建物が建ち、賑やかで豊かさを感じます。
ただ、身近に感じられる問題として現在の日本と同じく電力問題が深刻です。
数年前から日常的に地域ごとの輪番制による計画停電が行われていています。
現地の最終日は土曜日だったのですが、午前9時半から夕方4時半まで完全に停電していました。
しかしながら、レストランも調理はガスで、冷蔵は氷を使って普通に営業しておりました。ただ、フレッシュ・ジュースはミキサーが使えないので作れませんでした。
この国では人々がそれなりの対応をして乗り切っているようです。
隣のゲストハウスの屋根を見て気付いたのがこれ。
大型の黒いポリタンク。
停電しても24時間お湯が出たのはこのおかげでしょう。
ハイテクでなくても省エネは可能だという好例でしょう。
この国の面積は北海道の約8割の広さ。そこに約2000万人が暮らしています。
総発電能力は約200万キロワットですが、需要を完全に満たすには250万キロワット必要だそうです。静岡県300万人の電力使用量よりも遥かに少ないですね。それで2000万人がなんとか暮らしています。多分、我々は彼らの10倍は電気を使っているのでしょう。
なぜ、そんなに発電量が少ないかというと、水力発電がメインなのだそうです。
かつて日本のODA(政府開発援助)で30万kwの石炭火力発電所を建設しようとしたところ、大気汚染に反対する住民運動で頓挫したそうです。現在では中国の援助で強引に石炭火力発電所が建設され稼動しているようでが、環境に関する意識の高さにも驚きます。
どんなに電力が足りなくても原子力には頼らないでしょうね。
この国には7つもの世界遺産があります。伝統の中で文化的に非常に洗練されてきた民族なのではないでしょうか。この国の行く末はわかりませんが、日本以上に文化度が高い国なのかもしれません。
毎度おなじみの風景ですが、
最終日もまったりしたいつもの時間が流れていきました。
毎日午前中にはこの地元の子がマンボー前にやってきてずっと波乗りをしています。
体重も軽いんでしょうが、とても軽快に乗っています。
技も特訓中です。
ジャンクな波でしか練習させてもらえないのかメインリーフには行きませんが、
ダラダラの波で上手く乗りこなしていますので、5年10年後には凄いことになっているでしょうね。
とても熱心に練習していました。
こちらの犬は暑さに強いというよりも暑いところが好きみたいです。
日陰もあるのですが、直射日光の当たる砂浜にわざわざ寝てるんです。
こんな風なヨーロッパの美女が多いです。
日陰で新聞を読むこんなオジサンもいます。
マンボーのスタッフはサタデイナイト・パーティのために流された砂をレストラン前に盛り上げる作業中。
バーの前は金髪美女の溜まり場。
なんていう風景が日常の風景です。
物価も安いし、食べ物も美味しいし、人もフレンドリー。
来ているヨーロッパの長期滞在者も穏やかだし。
もちろん波は有りすぎるくらいあったし。
これ以上言うことは無い場所でした。
いろんな場所へ旅しましたが、スリランカは私のレベルのサーファーには超A級のデスティネーションでした。
もっと長くいたかったです。
最後にババちゃんがビールをおごってくれました。
スリランカの国民的ビールのLionビールです。
スリランカの多数派のシンハラ人のシンボルはライオン。
一方、少数派タミル人の鎮圧された反乱軍はタミル・イーラム解放のトラ。
民族問題はちょっと複雑な気持ちになりますね。
でも、平和な今、Lionビールは美味しかったです。
とうとうヒッカドゥワを離れる時が来ました。
帰り道も無法状態の公道グランプリ。
約3時間半の恐怖の時間でしたが無事空港に到着。
空港でも日本人は少なく、目立つのは旗を持った添乗員についていく中国人の団体旅行客でした。
成田行き直行便はやはり3割ほどの搭乗率で快適でした。
最後だし、機内食ならカレーで大丈夫だろうと頼みましたが、
どひゃ~、やっぱり思い切り辛かったです。
咳が止まらなくなりそうでした。
光輝く島2012はこれで終了です。
今回のスリランカで1984年のリベンジはとりあえず遂げることができました。
フィリピンはまだですが・・・・。
スリランカはハワイに代わる私のお気に入りになるかもしれません。
鄙びた感じ、ホスピタリティ、文明の便利さ加減など丁度良かったです。
今回も波が大当り、幸運に感謝です。
母親が亡くなって喪に服していた1年。
3年程の間ではありましたが、単身実家に帰り母の介護をした日々も懐かしく感じるようになっていました。
考えてみたら、両親が亡くなり、子供もいない私は、もはや気楽な存在。
若い頃夢見たサーフボードを持った放浪旅もやろうと思えばできることに気づきました。
2007年のハワイ以来、どこへも行っていなかったのでボードを抱えて一人旅に出ようと思い立ちました。
手始めに申し込んだツアーは南台湾。
ところが、旧正月とバッティングして帰りの航空券が手に入らず、急遽目的地の変更を余儀なくされました。
そこで、スリランカが候補地に浮上しました。
思えば、これは運命だったのでしょう。
1984年26歳の時、初めてアジアに一人でサーフトリップに行った先がフィリピン。
何の情報もなく、アメリカのSURFER誌の記事が頼りでした。
フィリピンを2週間駆け廻り遂にサーフを見つけられずに成田に戻ったという苦い経験でした。
その帰りの飛行機(パキスタン航空)にサーファーが乗っていました。
話を聞くと、スリランカで8feetの波に遭遇したとのこと。
これがスリランカでサーフィンができると知った最初の出来事でした。
2012年1月15日 DAY 1 成田へ
朝早いので駿府町からボードを担いで駅に歩いて行くつもりでしたが、
妻がクルマで迎えに来てくれたので助かりました。ありがとう。
静岡始発電車で品川へ。
ここでしばらく待機して乗り換えです。
東京駅で乗り換えると延々と歩かなくてはなりませんが、品川乗換えだと乗換えが簡単です。
成田エクスプレスで空港へ
これまで見れなかった景色も現れました。
初めて見ましたが、さすがにデカイ。
成田に着いて、チェックインしました。
なんか、飛行機ガラガラみたいです。ラッキー。
成田にもこんなトラムがあるんですね。知らなかったです。
いちばん外れの87番ゲートへ。
駐機中のこのスリランカ航空の飛行機で
いよいよ出発します。
時刻表では13:30発の予定なのですが、偏西風の向かい風で遅れるのが嫌だから
12:40にはゲート閉めて出発してしまうそうです。
やっぱりお客少ないみたいです。
かつてセイロンと呼ばれたスリランカ。
独立後に国名をセイロンから一般人が使う呼び名のスリランカに改めたとのことです。スリランカの意味は「光輝く島」なのだそうです。
搭乗口に並ぶような人もいなくて、とてもユル~い感じに搭乗が始まりました。
搭乗したスリランカ航空445便はエアバスA340、搭乗率は3割強くらいのゆったりめ。
霞ヶ浦を越えて飛び立ちました。
これが↓エコノミークラスの椅子なのですが、
こちらのブランドに反応する友人が多いので(笑)写真をアップしておきます。
ただし、いくらRECAROのシートでも9時間以上の座ったままのフライトは辛いところです。
お楽しみはこれしかないので、ブロイラー状態です。
ちなみに遅めのランチはビーフにしました。ピンク色のお蕎麦が泣けます。
長い道中のために普段は見ないサーフィンの雑誌を2冊買ってきましたが、広告のコピーを含めて隅から隅まで全部読んじゃいました。もっと本を買ってくれば良かった。
太陽に向かってのフライトだったので長い長い昼でしたが、ベトナム上空でようやく陽が沈み始めました。
遅い夕食、今度はチキンにしました。何で、どら焼きなのか・・・。
1時間後、遂にスリランカの主要都市コロンボに着陸しました。
この国の入国手続きや書類はコロコロ変わるので有名らしいのですが、
1月1日から書式が変更された上、ビザが必要になったらしくて、空港でビザの取得
やらなにやらで1時間以上かかってしまいました。
空港を出ると宿泊予定のマンボウゲストハウスのガイドが迎えに来てくれていて、ハイエースに乗ってヒッカドゥアに向かいました。
これがまた、インドネシア・ジャワ島の交通事情を思い出させるアジアらしい運転で・・・。
なんとか事故もなく(凄いことだ)無事にマンボウゲストハウスに到着しました。
現地時間の午後11時過ぎ。日本時間だともう明け方でした。
ゲストハウスは日本の民宿のようなランク付けでしょうか。
マンボウは清潔でサービスも行き届いていると評判です。
ただ、設備など日本と比較してはいけないのでしょうが、お湯がちょろちょろだったり、石鹸などのアメニティは全く用意されていません。それでもスリランカでは良い方なのでしょう。
交通事情と言い、ウエスト・ジャワのデサ・リゾートの時と同じような感じです。
とりあえず、夜も遅いのでシャワーを浴び、明日に備えて寝ることにしました。
1月16日 DAY 2 ヒッカドゥア
エアコンが無く換気も悪い部屋でしたが、意外と夜は涼しく天井のファンも必要ありませんでした。
夜が明けたので外の様子を見てみました。
マンボウゲストハウスの前はこんなに海が迫っています。
日本の海の家よりも波打ち際に立っています。
ゲストハウスの左側にヒッカドゥワのメインポイントが見えます。
今日はゆっくり疲れを取りコンディションを整えるためのウォーミングアップくらいに押さえておこうと思います。
しかし、頭オーバーでダブルくらいありました。
またもやトリップ先で波に当たりすぎ。
見知らぬ土地の初めての波でこれはちょっと・・・・・。
またまたウエスト・ジャワの時を思い出させる展開です。
まあ、とりあえず冷静にということで
朝ごはんです。
このロケーションで飲む朝の熱い紅茶は、さすがに美味い。最高です。
旅費に含まれている朝ごはんです。残したら失礼なのでお腹いっぱい。デブになりそう。
海の中もだんだん人が増えてきましたが、
波は相変わらずでかい。
食事中、マンボウのガイドのリーダーとして有名なババちゃんが挨拶に来てくれました。
フレンドリーな人です。
明日はもっと波が大きくなる予想だそうです。
どーする俺。
食後、部屋に戻り写真をブログサイズに加工したり、文を書いたりしてお腹が落ち着くのを待ちました。
ところが、あるはずのWiFiが飛んでいません。
これではブログアップもメールチェックもできません。
さて、どうしたものかというところですが、
このエリアは朝は風がないのですが、だんだん陽が高くなるにつれオンショアが吹いて波のコンディションが悪化すると聞いていたのでブログをやめて海に入ってみることにしました。
とりあえずはAviso JJ Rocket Fish 6'2"をセットアップして階下へ降りてみました。
浜に降りようとしたらテラスで食事中だったガイドの子が近寄ってきてリーフの位置やチャンネルの潮流の具合などを教えてくれました。
至れり尽くせりです。やはり短期間の海外サーフトリップで面倒見の良いガイドの存在は大きいです。
マンボーゲストハウスの軒先の砂の中から出てきました。
今年最初の孵化だそうで、大急ぎで海に向かって走って行きました。
うまく沖にゲッティングアウトできたでしょうか。
こんな大自然の営みが目の前で起きる驚きの島です。
さて、教えられたチャンネルからちょっとビビリながら私もゲッティングアウトして沖に出ました。最初は末席で他の人たちを観察。
ポイントには最大で10名程度、しかもライトとレフトは完全に分かれていて5名ほどで波をシェアすればよい状況。サーファーはローカルと白人だけ、それも英語圏じゃない人たち。日本人はいませんでした。
掘れるライト側の一番アウトでたまに入ってくるワイドなセットを待つ、いつものエディ・シフトで待ちました。
最初のうちコンスタントに波が入ってきたので他の人が間に合わないような大き目セットに照準を合わせました。
入ってくるセットはどれも完璧なAフレームの波。
ひときわ大きいのを狙いましたが、意外なほどテイクオフはイージー。
斜面がもの凄く広い波で、こういう波は仙台新港の大波以来でした。
カットバックで繋ぐのですが、あまりに面が広いのでどのくらいの半径でターンすれば良いのか悩むような波。1本ごとに回転半径を変えてちょうど良いカットバックのタイミングを計りました。
最高にご機嫌な波でした。
他の人もガツガツ波を取る人はおらず、ニコニコ笑顔で波乗りができました。
でも、凄いスピードと脚にかかる重力で、油断してたらボトムでコケました。
落ちた時の衝撃がきつく、痛かったです。
脚への負担が大きく、ライディング中に2度も脚がつる事態も起きました。
まだまだコンディションも完全ではありません。
でもとりあえず、初日最初の波乗りとしては出来過ぎでしょう。
とりあえず波に乗れたのでお腹いっぱいと言う感じで満ち足りてしまいました。
少し、周辺の様子も見ておこうと海岸を散歩。
メインポイントの先には広いビーチが広がっていて、ヨーロッパからの長期バカンスの人たちがたくさんいました。
若い人もお年よりも。
このエリアはホテルではなくゲストハウスが集まっている地域です。
ヨーロッパの人たちはお金をかけずに長期滞在して、ほんとうにのんびり楽しんでいるようでした。
こんな漁民のカヌーが何艘も置いてありました。
アウトリガー式のカヌーは南太平洋からインド洋まで海上の道を作り文化を運んだのですね。ハワイやポリネシアの技術や文化がインド洋のモルジブあたりまで繋がっているのです。
遅めのお昼をマンボーゲストハウスのテラスレストランで頂きました。
ここだけWiFiの電波が届いていたのでメールチェックやブログアップができました。海外では食べ物を注文しても出てくるまで時間がかかるので、メールチェックにはちょうど良いです。
お昼はパイナップル・ミルクセーキとチキンのフライドライス。
ジュース類は日本のどんなお店で飲むよりも新鮮で濃厚で美味しかったです。
午後はのんびりして過ごし、夕方になりました。
メインポイントのグーフィー側はタルめで初心者向きと言われていますが、
波が大きいとかなりハードになります。
いやはや、デカイ波に当たってしまいました。
明日は当初から予定してあるとおり、ガイドの車で周辺の各ポイントをチェックする予定です。
スリランカのサーフィン初日は、美しい夕陽で暮れていきました。
さて、スリランカといえばカレーです。
スリランカでは1日3食カレーが常識。
レストランのメインメニューはカレーと聞いていたので
この1週間ほどは日本でもカレー断ちしてきました。
初日の夕食はやはりカレーにしなくてはと思いました。
こちらのカレーはかなりスパイシーと聞いていたので少しマイルドな感じでと注文しました。
日本で食べるカレーライスとは別物。
カレーはやっぱりチキンだろうと(日本最初の新宿中村屋のカレーはチキンカレー)いうことでチキンを選びました。
右奥がカレーですが、日本の感覚だとご飯の比率が大きすぎですね。
こちらでは手でご飯をつまみ、カレーを付けて食べるので、いわばタレのような感覚なのでしょう。
カレーの手前、ご飯の横にあるのがスパイスで、舐めると異常に辛かったです。
これを好みの量だけカレーに混ぜて辛さを調整できるのです。
こんなにたくさん出てきましたが、小さじ半分で充分に辛かったです。
甘くて濃厚なパパヤジュースでようやく中和できました。
1月17日 DAY 3 プチ・トリップ
さて、一夜明けて現地2日目の朝。
今日はガイドの車で他のポイント巡りです。
ガイドはハッサン。ババちゃんも朝6時に来て起こしてあげるからと言っていたのですが、予想通り、6時半になっても来たのは
この犬だけ。
別に何かをねだるわけでもないのですが、誰もいないレストランで私のすぐ側に来て丸くなって寝ていました。犬も人懐っこくてホスピタリティに溢れている島なのですね。
6時45分になって、ようやくガイドのハッサンが来ました。
空港に迎えに来た、あの超高速運転手とのコンビで南のサーフポイント巡りに出発しました。
朝のラッシュアワーなので、通勤・通学の人たちで町は賑やかでした。
この国の道路は信号機が極めて少ないうえに、交通ルールは典型的なアジアスタイル。ラッシュアワーの交通事情はどうなってしまうのだろうと興味津々でした。
クルマも多いですが、バスや鉄道を待つ人の姿も多く、学校の近くの横断歩道や主要な交差点には警察官が大動員されていて交通整理していました。
こんな婦警さんも道路の真中で交通整理していました。
みんな運転が荒いので命がいくつあっても足りないような気もしますが、恐くないのでしょうか。でも事故の現場を一回も見てないですし、混沌のように見えても現地の人にとっては普通に安全確保できてるんでしょうね。
ゴールの市街地を抜け、ミディガマ、ウェリガマといったポイントをチェックしていきましたが何処も波が大きすぎてクローズアウト寸前。
最後に街道から未舗装の横道に入ってクルマは止まりました。
今回私が一番楽しみにしていたポイントのメリッサです。
椰子の木に囲まれた美しい小さな湾にコンパクトなレギュラーブレイクがあるのです。
が、しかし、今回は湾の沖合いで大ダンパーがブレイク。
湾内でも再びうねりに戻った波がブレイクしていて数人のサーファーが入っていましたが、ロングボーダー憧れの美しいブレイクは見る影も無く諦めました。
初心者向きのマッシーなビーチブレイクのウェリガマに戻りましたが、こちらもダブルオーバーの大ダンパー。波乗りできる状態ではありませんでした。
一番最初のポイントのミディガマに戻ると遥か沖にサーファーの姿が見えました。
このレギュラーが魅力的に見えましたが、ガイドのハッサンが左側のグーフィーの方を推すので
こちらに入ることにしました。
小さい波で頭オーバーくらい。
セットはダブルくらいでしたが、昨年秋の四国トリップ以来、バックサイドのサーフィンが好調なので大丈夫でしょう。
高知のNポイントのグーフィーにも似ていますが、サイズで2倍、水量では4倍はあるでしょう。
ポイントまでかなりの距離があるのでライトニングボルトのシングルフィンで入ることにしました。
この砂浜からハッサンが教えてくれたコースのカレントに乗ってパドルアウトしました。
ポイントには上手なローカルの子供と白人が3人だけ。
小さな波を狙いましたが、時々広い湾全体がクローズするようなダブル以上のセットが入ってしまい、ダックダイブ(ドルフィン)しても通用しないような状況。
それでも頭半くらいのスローな長~いグーフィーの波を何本も乗れました。
台風時の坂井港の奥からブレイクするグーフィーのような波で、長さは2倍はありました。
ムネ~アタマくらいだったら凄いファンウェイブでしょう。
入っているサーファーの中で上手い人はこの女性くらいでした。
これで波の終わりごろのサイズです。
1時間半ほどでお腹いっぱいになり上がりました。
その後、2ラウンド目のために休憩しましたが、体力の消耗と体の痛み(大波に叩かれて首の筋肉が痛くて)沖のトリプルサイズの大ダンパーを見て戦意喪失し、帰ることにしました。
さて、クイズです。この海の中に立っている細い棒は何のための物でしょう。
この棒は釣りのためです。もっともこちらは漁業としての伝統の釣りですが、
ストルト・フィッシングというのだそうです。
このあたりの風物詩というか、観光の一環でもあるようです。
ミディガマのサーフポイントのまん前にもゲストハウスがあり、ヨーロッパのサーファーたちが滞在していました。
このあたりはヨーロッパからのお客が多く、それを対象としたゲストハウス(民宿)がたくさんあります。
彼らは地元民の足であるトゥクトゥク(ミニ三輪車)をチャーターして幌の上にボードを満載してサーフポイントに出掛けるスタイルがほとんどで、お金を掛けずに地元に密着してバカンスを楽しんでいます。
今回の旅は初めてのスリランカで短期なこともありサーファー向けの安いパックツアーですが、彼らと比べたら大名旅行。日本人の平均的な旅スタイルと彼らの旅の楽しみ方では根本的に違いが感じられます。
日本人ももっとお金を掛けずに地元に密着して長い休みを過ごせるような社会構造を作っていかないと、これからの低成長・デフレ・高齢化の日本で、生きていくことの満足度を向上させることはできないのではないかと思います。
ここに来ている人たちは言葉の感じからEUの中でも債務国であるスペイン・ポルトガル・イタリア・ギリシャなどではないでしょうか。
安宿・安レストランでも楽しそうで賑やかな白人の家族連れをみていると日本人もこういう部分を学ばないと、社会情勢に心の部分が蝕まれてしまうような気がします。
波はトリプルのダンパーなので午後まで波乗りをする気にはならず、途中にあるゴールの街へ向かうことにしました。
途中、ガイドのハッサンが道端の椰子の実売りの屋台で止まってくれました。
これはゴールデン・ココナッツで、木に成っているときから実がむき出しの品種です。
屋台のおじさんが蛮刀のような鉈で手際よくスパッと実を切ると
こんな感じで中のジュースを飲むことができます。
そして飲み終わると
鉈で二つに割って中の白い果肉を食べることが出来ます。
この時、左の実の中にある殻の切れ端を鉈でサッと作ってくれるのですが、
これが殻の内側のアールにぴったりのスプーンになるのです。
甘くて美味しかったです。
小さな集落の平均的なイメージでしょうか。
スリランカではやたらに人にカメラを向けるのはタブーとされていると何かで読んだことがあります。写真撮影は普段よりも慎重にするようにしました。
こんな風景もありました(笑)
クルマは日本のトヨタが圧倒的で、ハイエースやカローラの比率が高いです。
数は少ないですがプリウスもホンダのインサイトも見かけました。
後は、インドのTataも多いですね。話題の格安カーのnanoもタクシーで走っていました。
これがスリランカ南部の典型的な漁船です。
港がなくても砂浜から漁に出られるのでコンクリートで漁港を作る必要もありません。伝統の技術は環境にも優しいんですね。
これがゴールの旧市街地を囲う城壁です。ゴールはスリランカ南部最大の都市。
1589年と言いますから日本の戦国時代の終わりごろポルトガルによる最初の砦が築かれ、後にオランダが植民地支配の拠点とし、その後イギリスに変わりました。
東洋への海上交通の要衝ですから西洋列強が重要拠点として支配したのは当然でしょう。巨大な城塞都市となりました。実はこのゴールの旧市街は世界遺産に登録されています。歴史的に重要な遺産なのです。
ここスリランカは東西海上交通の重要地点にあり地政学的にも世界の重要な場所。
紀元前3世紀には王朝文化が栄えた高い文明を持った民族なのです。日本なんかよりずっと歴史と文化がある民族。しかし、悲しいかな地政学上の重要地点だっただけに異民族、とりわけ西欧列強の侵略を受けてきた歴史があります。
シンボルとなっている時計台です。
スリランカは400年近く異民族によって支配・抑圧されてきたわけです。
その時代の統治者がスリランカ国内の多数派シンハラ人と少数派タミル人との軋轢を利用したに違いありません。
つい2年前の2009年まで長い内戦が続きましたが、今はテロもなく本当の平和が訪れたようです。スリランカの平和な未来は始まったばかりと言えます。
ゴールの城壁から新市街地を望むと目の前にクリケット場が見え、クリケットに興じる人たちの姿が見えました。ここは大英帝国の支配下でしたからね。その奥の真新しい建物はバスターミナルです。
そこで思い出すのが2004年に発生したインド洋のスマトラ沖大震災による大津波の映像です。
遠く離れたこのゴールの新市街も巨大津波に飲み込まれました。
映像の手前がバスターミナルで、背景にゴールの城壁と時計台が見えますね。
日本の大震災の7年前のことですから、この教訓を日本でも生かせていたらなと思います。
ちなみにスリランカではこの大津波で3万人以上の人命が失われました。
実に日本の大震災の2倍の被害者数です。
しかし、ざっと見ただけではそんな大災害が起きた街だとは到底思えないような賑やかさでした。
植民地としての抑圧、長く続いた民族間の内戦、そして大津波。
でもスリランカの人々は貧しくとも逞しく明るく生きているのに驚かされました。
尊敬すべきはテレビに出て文句を言う評論家達ではなく、こうした一般庶民の生き様でしょう。
南側に大きな湾が望めます。この湾と新市街の低い地形が被害を大きくしたのですが、
大航海時代には多くの大型帆船がこの湾に浮かんでいたことでしょう。
こんな風にレストランでブログ書いてます。
1月18日 DAY 4 休息日
波に叩かれ、体がボロボロ。あちこちが痛みます。胃もちょっと痛いので(本当は食べ過ぎ)
夕食を一回抜くことにしました。
でも、空腹に耐えられないと困るので近くのスーパーマーケットで買出し。
スーパーと言っても、日本で言う駄菓子屋程度の規模で商品も田舎の駅のkioskよりも少ない小さな商店です。
珍しく愛想の悪いオヤジが店主で、インドの映画に出てきそうな感じ。
スリランカ人はホスピタリティ溢れると言っても、こういうオヤジだって当然いるでしょう。
お店の写真なども撮りたかったのですが、そんな雰囲気なので撮れませんでした。
さて、買ってきた物の中に好物の
チョコレート・チップ・クッキーがあったのですが、
そのブランド名に気付き思わず笑ってしまいました。
Munchee BISCUITS(マンチー・ビスケット)
そういう時、私は甘いビスケットに走っちゃうんです。。
今回の旅では波乗りに集中するためにお酒も煙もオンナっ気もナシです。
夕方、iPhoneでメールを打とうと思い2階のテラスに出たんです。夕食を抜くのでレストランは避けました。2階のテラスは端っこのごく狭い範囲でしかWiFiの電波が届いていないのです。
そこにフランス人の女性が座っていたので少し離れたところに立ってメールを打っていました。
そうしたら「夕陽がきれいよ、あなたもここに来て座って眺めなさいよ」と英語で話しかけられてしまいました。
でも、さっきまで旦那が座ってましたから「いや、いいです、ここでも見えますから」と言って固辞しました。
旦那が戻ってきて変に誤解されるのもイヤですし。
でもねえ、ビキニのトップを緩めてるからって、谷間を手で押さえながら話しかけるのやめて欲しいなあ。覗こうなんて思ってませんから(汗)
スリランカは仏教の戒律が厳しいそうです。
ヨーロッパのバカンス客が多いのに、国の法律でトップレスも禁じられたそうです。この国で危ないことは避けましょう。
1月19日 DAY 5 メイン・リーフ
昨日は体のあちこちが痛くて体を起こすのも結構辛い1日でした。
それでも休養が効を奏して、痛みも取れ完全復活できました。
真っ暗なうちから起きてヒッカドゥワ・メインリーフの一番乗りを狙いました。
昨日までのトリプルセットは消え、見た目は半分以下にサイズが落ちたように感じましたが、1ラウンド目は大事を取ってライトニングボルトでパドルアウトしてみました。残念ながら1番乗りではなく先客が一人いましたが早起きは値千金です。
サイズが下がったとはいえ頭半、ピークはダブル近くありました。
重いライトニングボルトのレトロシングルフィンで正解でした。
このサイズの波だとスピードが出るのでAviso JJでは浮きあがりを押さえ込むのがたいへんなのです。細くて浮力の無いパフォーマンスボードか重いレトロなボードが大きな波には向いています。
日本の普段の波では軽いボードの方が乗りやすいのですが、ここの波はボードの重さが必要と感じました。
風は無く面はグラッシー、パーフェクトなシェイプのヒッカドゥワならではの波でした。
上の写真を拡大すると
まだまだサイズがありますね。
レギュラーの大き目を狙ってテイクオフして、昨日見た上手い人がやっていた掘れたセクションでカットバックを試みてみました。
マシンのように規則正しい波なので同じ場所で同じ事をまねてみることができるのです。リップぎりぎりで大きくカットバックしてポケットに入りましたが、もうちょっとのところで抜けられず潰されました。
でも、ちょうどパドルアウトしてきた白人サーファーが、
「ワォー、凄かったよ」と言ってくれました。
ポイントの雰囲気も良いです。
しかし、あっという間に続々とサーファーが集まってきて混雑状態に。
こうなると雰囲気もギスギスしてきます。
1時間ほどで1ラウンド目は終了。
体を動かしたので体調も非常によくなりました。
朝食後、2ラウンド目に出ました。
人は一挙に20人以上。
ポイントブレイクに20人は限界を超えた人数です。
2ラウンド目はAvisoで入る予定でしたが、作戦を変更。
波を観察していたら、15分に一本くらいワイドに入ってくる大きな波があり、それには誰も対応できずにいました。
そこでライトニングボルトで一番アウトのレギュラー側の端、エディ・シフトで波待ちする作戦にしました。
滅多に入らないワイドセットを確実に捕らえられる位置取りをする一方、
メインリーフに連続セットが入り、メインの上手い連中が次々に乗って空いたところに後方から回り込んで忍び寄り、
4本目5本目あたりのセットを取るという作戦。
パドルもテイクオフも早いボードならではの作戦です。
波はやや落ち着いてセットで頭半くらい。
テイクオフのエリアも狭まって人が集中して来ました。
でも、私は一人外れで待ちの体制。
そうしたらローカルサーファーが日本語で
「そこ 波 ないよ、ここ来な」と呼んでくれるのです。
おせっかいですが、嬉しいですね。
「日本人、珍しいよ」「5年前いっぱいいたね」
「いま、日本人、お金ないね」
よく知ってますね。私も大笑いして返すしかありませんでした。
そうなんです。この混雑の中でも日本人の姿が無いということは、今ヒッカドゥワにいる日本人サーファーは私だけかもしれません。
実は、正月から先週までマンボーには15人の日本人が宿泊していたそうですが、ほとんどが帰ってしまい、現在ここにいる日本人はババちゃんの奥さんやスタッフの奥さんとその友人だけなのです。
そこでマンボーの主要スタッフもアルガンベイのマンボーハウスの補修に出掛けてしまいました。
2ラウンド目も作戦がほぼ的中して本数は少ないですが大きめセットは乗らせてもらいました。
こちらも1時間ほどで上がりました。
波が下がると同時に、今度は浅瀬のリーフにぶつかる危険もあるので集中力が残っているうちに上がりました。
1月20日 DAY 6
旅も終盤
いつも変わりない風景ですが、今日は波だけが違いました。
波がほとんど無くなってしまったように見えます。
今朝は本当に1番乗りを目指して波が見えるか見えないかの暗がりをAvisoでパドルアウトしました。
さすがに今日は一番でした。でも2本乗ったところで2番から5番までもが到着。
今朝の挨拶は
"Good Morning........No Wave.
計測波高は80cm以下しかないようですが、周期は12秒以上あるので
ヒッカドゥワの波は腐っても鯛です。
日本の波情報の表記なら、ムネ~カタ~アタマ ◎80点というところでしょうか。
悪くても日本の最高水準の波がブレイクしています。
朝一はヤル気満々の比較的乗れるメンバーが揃っているうえ波数は少なめなので、
静かなポジション争いもあります。
私はその反対反対を狙って空白のスペースを見つけて小刻みに動き回り、誰とも競わずに波を取っていくスタイルで結構乗らせてもらいました。
今日も1時間弱で上がりました。
短時間で止めるのは、自身のコンディションのためもあるのです。
初日に2回、昨日も1回、Avisoに乗っているとき軸足が攣ってしまいました。
今日は肩も痛み出してしまいました。
歳をとるってこういうことなんでしょうね。嫌ですねえ。
パドリング肩とでも言うのでしょうか、パドルのし過ぎで炎症を起こしているのでしょう。
救急法ではこんな時、氷で15分間冷やします。
ほら、野球のピッチャーがベンチへ引っ込むと氷の袋でアイシングをしてますよね。
肩を酷使することによる炎症(内出血)の止血のために20分以内で氷で冷やすと早く炎症を抑えることができるのです。
氷はないので15分間冷たいシャワーで肩を冷やしました。
陽が高くなってくる頃には朝のメンバーは上がってしまい、
波乗りを覚えたばかりのファンボードのバカンス客に替わりました。
でもこの人たち恐いもの知らずというか、頭サイズのピークから突っ込んできて乗り切ってしまうのです。白人の多くはライディングはヘタクソでも筋骨隆々でパドル力があり侮れません。
そんな人たちの合間を縫ってローカルの子供たちが軽やかに波乗りをしています。
波が小さくなって、ますますゆっくりとしたユル~い時間が流れるヒッカドゥワです。
終盤になり波乗りをできるだけやっておこうと
朝一の1時間、朝食後1時間、夕方5時から1時間というスケジュールで動いていました。
朝食のため部屋を出たらお隣の部屋の方にばったり。
昨夜遅くに到着した千葉のご夫婦。初めて日本人のサーファーと出会いました。
朝食後のサーフィンといっても午前11時頃からです。午後はオンショアが吹き始めますが午前中は風もほとんど吹きません。
マンボーゲストハウスの正面にもサーフポイントがあるのですが、よほど砂が付いている時でないとなかなかブレイクしない厚いブレイクです。
マンボーチームが団体で入っているとき以外はいつも1~2名しか入っていないので、入ってみることにしました。
マンボーのスタッフの目の前なのでこちらの実力を知ってもらうには良い場所です。Avisoが高価だということはスリランカのサーファーも知っています。ただの金持ちオヤジだと思われないためにもAvisoを乗りこなすところを見せないとね。
波が小さくトロトロなうえ、滅多に入ってこないコンディションなので波を読む力としっかりパドルしてテイクオフでき、しかもトロ波でも加速できるテクニックがないと乗れません。
まあ、なんとか何本か岸まで繋いでメイクできたので、スタッフの方たちにもそこそこに認めてもらえたでしょう。
午後はひたすら体を休めます。部屋の前は広いテラスになっていてのんびり昼寝ができるようになっています。
マンボーでは部屋の中に閉じこもっているよりもここでのびのびと昼寝したほうが気持ちが良いのです。
ゲストが昼寝していることよりもスタッフが寝ていることの方が多いですが・・・(笑)
そうそう、ここでよく読書をしている若い日本人女性を見かけていましたが、スリランカ人スタッフの奥さんかと思い、ガイドのババちゃんがいつアルガンベイから戻るのか知りたくて声をかけたのです。
そうしたらそうではなくて、彼女は2ヶ月前に会社をやめてスリランカに来て家を借りて長期滞在しているのだと聞いて驚きました。
凄い行動力ですし、家を借りるといってもどうやって探したのでしょう。かなりの情報収集力、交渉力、他人とのコミュニケーション能力と度胸と愛嬌がなくてはよその国の人たちのコミュニティには溶け込めないでしょう。
でもこういう人って日本の会社社会には溶け込めないんですよね。
学歴や資格ではなく個人の能力を持ったこういう人材を会社に繋ぎとめておけない日本の企業の人事制度や企業風土が残念に思います。
こういう女性の友人が何人かいましたが、日本に戻っても派遣かアルバイトくらいしか働き口がないのが現実なのです。もったいないですね。こういう人たちが日本で能力を発揮できないなんて社会的損失だと思います。
なんてことを考えながら、だらりと弛緩して午後を過ごす私です。
午後3時を過ぎると散歩に出ます。
マンボー前の砂浜も大波が消えたと同時に日に日に復活してきました。
マンボー前から少し離れると砂浜は広くなっています。
ヒッカドゥワのエリアの中でも砂浜が狭くなっているのは沖でサーフィンができるリーフがあるメインリーフからマンボー前だけなのです。やはり波の力しだいなのですね。
ヒッカドゥワにはホテルもありますが、多いのはヨーロッパの長期滞在者向けのゲストハウス
ビーチ沿いのゲストハウスは質素で設備も貧弱のようですが、それぞれ雰囲気のある建物が多く、どれも泊まってみたくなる様な佇まいです。
スリランカは知る人ぞ知る歴史的デザインホテルの宝庫なのです。
ゴールの城壁内にはアジア最古のホテルを買い取ったアマングループのホテルもあります。
夕方5時からは1時間弱、メインリーフに入りました。
これまで透けて見える海底のギザギザ珊瑚のせいでミスして転ぶ恐のある技に消極的だったのですが、ようやくリラックスしてメイクできるようになってきました。最後の一本は掘れた斜面を抜け次のセクションでリッピングを掛けたのですがリップのパワーがあり過ぎて波の上に弾き出されちゃったのです。そのままフローター気味に着水できて、2度とできないエアリアルをメイクできました(笑)。まあ、体のバランスが非常に良くなってきたから転ばなかったのでしょう。日本の波では絶対無理です。
でも、明日が最終日なんですよ。せっかく調子が上がってきたというのに残念です。
最後の日没は見事なゴールドから真っ赤に変化する海でした。
1月21日 DAY 7 最終日
とうとう最終日になりました。
今日も暗いうちにヒッカドゥワ・メインリーフにパドルアウトして一番乗りを果たしました。すぐにドイツ人(たぶん)夫婦が来てしまいましたが、挨拶したのをきっかけに和気藹々といい波を譲り合いながらハッピーな時間を過ごしました。3人で「ワオー!見事な日の出だ」なんて叫びながら真っ赤な太陽が椰子の林の中から上がってくるのを見ました。
30分ほどは本当にハッピーな時間を送れたのですが、隣の部屋の日本人夫婦が来た直後に入ってきたイタリア人(そんなふうに見えた)4人組ががっつきサーファーで、急に波取り争いが始まってしまいました。あのドイツ人夫婦も堪らず帰ってしまいました。
これは、こいつらの仲間に加わってしまった方が争わなくて済むなと思ったので話しかけてみることにしました。イタリア人用の話なら車ネタでいけそうなのでとっさに考えたところで話しかけてみました。
Good Morning.where you guys from?
当然、「イタリー」と返事が来ると思っていたのですが、
France
と返ってきてしまいました(大汗)
・・・・・何話せばいいんだ・・・・とりあえず、ビアリッツはいい波が来るみたいですね。とか、ボルドーなんですか・・・ワイン美味いですねとかなんとか取り繕い、そこから先は何言ってるかわからないので、「え、聞こえないんだけど・・・・あ、波来たよ」なんて調子で話したおかげで、とりあえず私の狙う波は横取りされずに済みました。
ヨーロッパのサーファーは筋骨隆々でパドル力も強く、ラテンの血が燃えるのかとてもコンペティティブなのです。プロサーフィンの世界の上位44位までに日本人は一人も入っていないのですが、フランスやスペインをはじめとしたヨーロッパ勢は入っていますから。日本と比べてもサーフィンのレベルは断然フランスの方が上です。
朝一も1時間ほどで上がりました。
今回、もう一回メリッサに行きたいと思っていましたが、もう波乗りは充分にしたという満腹感なのでまたの機会にしようと思います。
後はのんびり過ごそうかと思っていたらアルガンベイから帰ってきたババちゃん兄弟とお二人の日本人の奥さんが赤ちゃんをあやしながらバーカウンターにいました。
肌の色が本当に黒いので最初はびっくりしますが、よく見るとババちゃんもお兄さんも目が大きく鼻は高く掘りは深い、インド・ヨーロッパ語族のアーリア系の顔。かなりのイケメンです。
写真はサーフトリップワールドのHPより
食事をしたらボードを片付けようと思っていたのですが、
今日が最後だからもう一回行ってきた方が良いよとババちゃんが薦めるので、
最後にもう一回波乗りに行くことにしました。
肩の痛みと脚力も限界にきていましたが、最後ですから。
もうあまり気合が入っていなかったのでグーフィー側の小さめをリラックスして乗りました。そうしたら隣の白人サーファーが話しかけてきました。
「どこから来たの?」
「日本です」
「あんたは何処から?」
「イタリアです」
ビンゴです、用意してあったネタを取り出しました。
「おお、イタリアですか、私の友達がランチャ・デルタに乗ってるんだ、それも12年も愛し続けていてね」
「ランチャ・デルタかい、ノーマルなのかそれともラリーかい?」
「そう、ラリー仕様だよ。あちこちパーツを変えてるんだ」
「ラリーなら4WDか?インテグラーレか?」
「そうだ、インテグラーレだ。」
「おお、グレート!」
ちょっと尾ひれを付けてしまって話してますが、どうせイタリア人相手なんでそのくらいデカく話してもいいでしょう(笑)
陽気な奴で歌を歌いだすやら、私の目の前でわざと派手にコケてみたり楽しいイタリア人を絵に書いたみたいな彼のおかげで周りのサーファーも彼の仲間には波取り争いはしてこないのです。
おかげで私も最後のサーフィンを楽しく乗ることができました。
この波が15分に一回くらいレギュラー側に外れてワイドに入ってくる波です。
メインリーフの中央で波待ちしているとグーフィー側しか間に合いません。
これを私だけレギュラー側に外れて待っているのです。
この波のおかげでオイシイ思いもできました。
スリランカの波乗りは楽しかったです。終了です。
2階の部屋の前のテラスでのんびりしていたら、先日のフランス人夫婦が去った後空いていた部屋の前で白人男性が一人でボードを修理していました。リペアキットを持っていないかと尋ねてきましたが、あいにく持ってきてはいません。
彼はニュージーランド人なのですが、中国で仕事をしていて休みを取ってきたのだそうで、ニュージーランドはオークランドに自宅があるそうです。
「オークランドはガーデン・シティって言われているんだよね」
「そうさ、美しい街だよ」
「私はマス釣りも好きだから行ってみたい場所なんだ」
なんて話が弾みました。
私ももう少し長くここに滞在できれば、一緒に波乗りに行ったりして良い友達になれたかもしれません。ハワイのマウナロアに一緒に登ったハワイ大学の恩師マーシャル・パーマーを思い出しました。
一緒にトゥクトゥクに乗ってメリッサで波乗りしたら楽しいだろうな。
ニュージーランドにも行ってみたいし、中国の海南島で落ち合うのも面白いかも。
やはり8日間(現地6日間)では足りませんでした。
ようやく波に慣れてきた頃でしたし、
これからどんどん友達ができてきそうな雰囲気でした。
残念ですが、時間切れです。
でも、また必ずスリランカに行きたいと思います。
ヒッカドゥワの町にいると平和そのものの楽園に感じるスリランカですが、この国も数々の問題点を抱えています。
これはゴールの街の駅ですが都市部では近代的な建物が建ち、賑やかで豊かさを感じます。
ただ、身近に感じられる問題として現在の日本と同じく電力問題が深刻です。
数年前から日常的に地域ごとの輪番制による計画停電が行われていています。
現地の最終日は土曜日だったのですが、午前9時半から夕方4時半まで完全に停電していました。
しかしながら、レストランも調理はガスで、冷蔵は氷を使って普通に営業しておりました。ただ、フレッシュ・ジュースはミキサーが使えないので作れませんでした。
この国では人々がそれなりの対応をして乗り切っているようです。
隣のゲストハウスの屋根を見て気付いたのがこれ。
大型の黒いポリタンク。
停電しても24時間お湯が出たのはこのおかげでしょう。
ハイテクでなくても省エネは可能だという好例でしょう。
この国の面積は北海道の約8割の広さ。そこに約2000万人が暮らしています。
総発電能力は約200万キロワットですが、需要を完全に満たすには250万キロワット必要だそうです。静岡県300万人の電力使用量よりも遥かに少ないですね。それで2000万人がなんとか暮らしています。多分、我々は彼らの10倍は電気を使っているのでしょう。
なぜ、そんなに発電量が少ないかというと、水力発電がメインなのだそうです。
かつて日本のODA(政府開発援助)で30万kwの石炭火力発電所を建設しようとしたところ、大気汚染に反対する住民運動で頓挫したそうです。現在では中国の援助で強引に石炭火力発電所が建設され稼動しているようでが、環境に関する意識の高さにも驚きます。
どんなに電力が足りなくても原子力には頼らないでしょうね。
この国には7つもの世界遺産があります。伝統の中で文化的に非常に洗練されてきた民族なのではないでしょうか。この国の行く末はわかりませんが、日本以上に文化度が高い国なのかもしれません。
毎度おなじみの風景ですが、
最終日もまったりしたいつもの時間が流れていきました。
毎日午前中にはこの地元の子がマンボー前にやってきてずっと波乗りをしています。
体重も軽いんでしょうが、とても軽快に乗っています。
技も特訓中です。
ジャンクな波でしか練習させてもらえないのかメインリーフには行きませんが、
ダラダラの波で上手く乗りこなしていますので、5年10年後には凄いことになっているでしょうね。
とても熱心に練習していました。
こちらの犬は暑さに強いというよりも暑いところが好きみたいです。
日陰もあるのですが、直射日光の当たる砂浜にわざわざ寝てるんです。
こんな風なヨーロッパの美女が多いです。
日陰で新聞を読むこんなオジサンもいます。
マンボーのスタッフはサタデイナイト・パーティのために流された砂をレストラン前に盛り上げる作業中。
バーの前は金髪美女の溜まり場。
なんていう風景が日常の風景です。
物価も安いし、食べ物も美味しいし、人もフレンドリー。
来ているヨーロッパの長期滞在者も穏やかだし。
もちろん波は有りすぎるくらいあったし。
これ以上言うことは無い場所でした。
いろんな場所へ旅しましたが、スリランカは私のレベルのサーファーには超A級のデスティネーションでした。
もっと長くいたかったです。
最後にババちゃんがビールをおごってくれました。
スリランカの国民的ビールのLionビールです。
スリランカの多数派のシンハラ人のシンボルはライオン。
一方、少数派タミル人の鎮圧された反乱軍はタミル・イーラム解放のトラ。
民族問題はちょっと複雑な気持ちになりますね。
でも、平和な今、Lionビールは美味しかったです。
とうとうヒッカドゥワを離れる時が来ました。
帰り道も無法状態の公道グランプリ。
約3時間半の恐怖の時間でしたが無事空港に到着。
空港でも日本人は少なく、目立つのは旗を持った添乗員についていく中国人の団体旅行客でした。
成田行き直行便はやはり3割ほどの搭乗率で快適でした。
最後だし、機内食ならカレーで大丈夫だろうと頼みましたが、
どひゃ~、やっぱり思い切り辛かったです。
咳が止まらなくなりそうでした。
光輝く島2012はこれで終了です。
今回のスリランカで1984年のリベンジはとりあえず遂げることができました。
フィリピンはまだですが・・・・。
スリランカはハワイに代わる私のお気に入りになるかもしれません。
鄙びた感じ、ホスピタリティ、文明の便利さ加減など丁度良かったです。
今回も波が大当り、幸運に感謝です。
Posted by エディ立川 at 18:31
│2012年1月 光り輝く島(スリランカ)2012